バウンダリー(境界線)を守る
例えば朝の通勤電車。車内はとても混んでいて、他人と身体が接触することもありますが、私たちは「自分の身体と他人の身体」の“境い目”をしっかり区別することが出来ます。
悲惨な出来事に遭遇し号泣している人をTVニュースで見た場合はどうでしょう。その人の悲しみがこちらに伝わってくるようで、自分まで胸が苦しくなった、という経験のある人もいるでしょう。身体と違って感情はその“境い目”が曖昧で、「ここまでは他者の感情で、ここからが自分の感情だ」とはっきり区別することがなかなか難しいものです。
バウンダリーとは?
自分と他者との適切な境い目のことを、バウンダリーと言います。バウンダリーには身体や物、場所といった物理的なものや、気持ちや感情、考えといった心理的なものなどがあります。カウンセリングで私はよく「あなたを守る、膜のようなもの」と喩えたりします。「自分と他人のバウンダリーが曖昧」だったり「他人に侵入され過ぎ」だったりするクライアントさんが、対話を重ねることでそのことに気付き、徐々に適切なバウンダリーを築いていくことも少なくありません。バウンダリーは自己と外界を隔て、個人を安心安全に守ってくれるとても大切なものなのです。
自他のバウンダリーを守るために
バウンダリーの侵害に気付く
人との交流の中で「何となく嫌だけど、Noと言いづらい」とか、「意見や感情が無視された気がする」、「うまく言葉にできないけれど、何だかモヤモヤする」という感情をキャッチしたら、それはあなたのバウンダリーが侵害されているサインかもしれません。
バウンダリーの侵害に気付くには、自分の内面に生じる些細な違和感を無視せず、「今、私は不快に感じている」と自分の気持ちに正直になることが大切です。
自分のバウンダリーを守る
違和感をキャッチしたら、自分を守りましょう。相手にキッパリ「No」を伝えることが出来ればそれが理想ですが、実際には難しいことが多いもの。「今夜は予定があって…」「ちょっと考えてみるね」など、時には嘘も方便です。また状況によっては他の誰かに助けてもらったり、その場を離れ物理的な距離を取った方が良い場合もあります。自分の心地よい物理的・心理的なラインを意識し、それを大切にしましょう。
他人のバウンダリーを尊重する
相手との関係が近くなればなるほど、お互い悪気なくバウンダリーを侵しがちになるもの。だからこそ、自分も誰かのバウンダリーを侵害していないか時々振り返りましょう。あなたの“良かれと思って”の行動が、相手の希望に沿っていない場合もあり得ます。あなたの善意に相手から「No」が返ってきたら、最初は腹が立ったり不快に感じたりするかもしれませんが、それは「あなたを信頼しているからこそ発してくれた“No”」なのです。相手のバウンダリーを尊重することは、ひいてはあなたのバウンダリーが尊重されることにも繋がります。
バウンダリーの侵害は、心理的なものだけでなく、身体的なもの(同意なく身体を触れる等)や時間的なもの(深夜や休日に重要でない連絡を受ける等)、些細なところでは所有物(自分のペンを他人に勝手に使われる等)など、様々です。
バウンダリーを引くことは、自分と他人の双方を尊重することに繋がりますが、例えば家族などの身近な関係では、時に境界を超えることが必要な場合もあります。大切なのは、無自覚に相手のバウンダリーを侵害するのではなく、「今、自分はどういう意図をもって相手の境界を侵しているか」をきちんと認識すること。
また、過度に周囲の目を気にしたり、相手の些細な反応に落ち込んだりしてしまう時は、自分のバウンダリーが揺らいでいるかもしれません。自ら自分の境界を緩め、他者の意見を過剰に取り込んでいるのです。
そういう時はぜひ、「ゲシュタルトの祈り」を思い出してみてください。
私は私のために生きる。あなたはあなたのために生きる。
私は何もあなたの期待に沿うためにこの世に生きているわけじゃない。
そして、あなたも私の期待に沿うためにこの世にいるわけじゃない。
私は私。あなたはあなた。
でも、偶然が私たちを出会わせるなら、それは素敵なことだ。
たとえ出会えなくても、それもまた同じように素晴らしいことだ。
「ゲシュタルトの祈り」は、フレデリック・S・パールズ(1893~1970・ドイツの精神科医) が創設したゲシュタルト療法の思想を盛り込んだ詩です。